2007年07月02日

第一章 一節

第1節 政策の内容

 それではまず『多聞院日記』にそって、その経過を明らかにしておく(10)。


 天正8年8月、およそ10年に及んだ本願寺戦の終結を迎える(11)。その直後に実行されたのが河内・摂津・大和の諸城破却である(大和を対象として「一国破城」と呼ぶ)。

 まず8月2日、石山本城が焼失しその終結を迎える。この日京都において筒井順慶が、織田信長より大和及び河内・摂津の諸城の破却を命じられる(12)。同16日に大和に戻った順慶は、翌日より居城の筒井城の破却に取り掛かかりる(13)。「当国悉以可破云々、郡山一城迄可残云々」とあるごとく、その対象は筒井氏の居城といえども例外ではなかった。そして同20日には「国中大旨破城云々、無所残歟」(14)という結末を迎える。

 続いて約1ヶ月後の9月25日、信長の命を受けた滝川一益・惟任光秀の両人が奉行として大和に入り、翌日にはその詳細が示され(15)、大和一国規模での指出検地が行われた(これを「大和指出」と呼ぶ)。10月23日には、ほぼ完了するに至る(16)。同28日指出奉行及び筒井順慶によって、戒重など国人4名が生害させられる(17)。これは「指出」に抵抗したものか、織田政権による危険分子の除去と受けとめられる。

 11月2日に任務を終えた滝川・惟任両名が大和を発つ(18)。そして『多聞院日記』同9日条に見る「昨夜安土ヨリ慥ニ注進状来、寺社領聊不可有違乱如先規ト、并順慶ニハ郡山ヘ可有入城、箸尾ハ順の与力ニナレト、国中一圓筒井存知ト七日ノ申刻ニ御朱印給云々」という信長の朱印が下され、総て終結する。

以上のような経過で行われた。


両政策の性格について、脇田・松尾両氏の見解について、松尾論のまとめられたところを頼りに政策の内容をまとめておく(19)。

「一国破城」は
1石山合戦の戦後処理として行われた。
2それは大和盆地を中心とする地域に散在する国人衆の居城の破却を対象とした。
3郡山一城以外の城郭を残らず破却した。
4破却内容は「作事」面にとどまり「普請」面にまでは及ばない。
とされた。

次に「大和指出」については
@指出は天正8年9月26日書式指示に始まり、10月23日の上使承認をもって完了する。
A指出は朱印状によって、信長の上意として実施された。
B上使からは具体的に詳細な指示が相次いで出され、その指示通りに「指出本帳」では、田畠屋敷とも「歩数」「得付・字・百姓」が記載され、米以外の収納物も米高表示された。
C指出は在地の知行関係に詳しい者の召出し、「古帳」の提出など徹底した厳密さで実施された。
D指出文書は各荘園・知行内容別の「作帳」「一紙目録」→「指出本帳」「指出一紙目録」という手順で作成された。
E指出文書の記載内容は在地が荘園制そのものであることを示す。
F指出では天正7年(1579)の年貢高(収納)が申告された。
G指出は大和1国を対象として実施された。
 以上が内容のすべてである。


 次に各々の見解に移る。まず織田政権の対荘園政策を論じた脇田氏は、BEから「実態は旧来のままでありながら、新形式で把握した」点にその織田政権末期の「大和指出」の意義を見出された。

 松尾氏はこれを批判する形で、BGこそ重視したいとされ、脇田氏の荘園制を容認したという結論に対し、それではあまりに消極的であり、なぜ「厳重之急」をもって臨む必要があったかと問われた。そしてBに見えるように「指出」の重点が知行高の厳密な把握にあった点と大和一国の全領土を対象とした点にも重視し、その知行高の把握は、国人衆に対する軍役などの賦課を目的として行われたとされ、織田政権が「厳重之急」をもって、「一国破城」と「指出」を実施したのは、更なる過重な軍役に対応できる大和軍団を創設するためであったされている。
 「指出」は軍役等の賦課台帳の作成を目的にしており、「一国破城」は大和の軍事・政治の支配拠点の整備を目的として行われそれらが相まって、大和における軍制の確立に両政策の目的があったのだと結論付けられた。

 両論の共通点は、天正8年という年が政権にとって画期となった年であり、この年に実行された両政策は、またその内容から見ても重要な意味を持っていたとされていることであり、ここに疑う余地はない。ここで考察の内いくつか見逃されていると思えるものについて検討を行いたい。その1点は本論の主題でもある「郡山一城残し」についてであるが、これは2章で具体的に考察したい。


 さて考察内容を見ていくと、両政策の実行者の違いについて何の見解も示されてはいない。脇田氏の場合、政策の関連性自体、特に述べられていないので別として、松尾氏の見解は、両政策の関連性を重視した考察であるにも関わらず、特に問題にはされていない。理由はわからないが、政策の性格上見逃してはならないと思われるので考察しておきたい。

 政策の内容を振り返ってみると、その実行者が別であることに気付く。このことは一見問題無さそうである。しかし織田政権の基本と照らし合わせたとき、やや特殊な意味を持ってくる。「一国破城」の実行者は筒井順慶である。これは特に問題とされるところではないであろう。すでに天正4年(1576)から大和一国は順慶に任せられていた(20)。問題は、「指出」が信長から任命された新たな(順慶ではない)奉行によって行われたことである。

 織田政権の基本方針としては、脇田氏の述べられているところの、いわゆる「一職支配権」(21)に基づき任命された、その国の統率者(今、大和は順慶)が検地などを行うこととしていた(表1)。このことは、政策命令者が信長であろうとも変わらない。しかし天正8年の「大和指出」では過去に例を見ない2名の指出奉行の任命がなされている。つまり、本来なら筒井順慶に命じられるはずである「指出」が、「上意」を受けた2名の奉行によって実行された。実行者の違いは両政策が関連しながらも独立していることを意味し、それは織田政権内でも特別な方法で行われた。これは大和であるということに関係するのではないか。

 松尾論でも両政策の独自性を考察した上で、関連性を重視するべきであると述べられてはいるが、あくまでも軍役にこだわっている。両政策の関連性は、松尾氏もいわれているとおり、どちらも一国規模で行われていることにある。ならば軍役のみを対象として考えるよりも、政・軍・経を総括してとらえて初めて理解できる問題だといえるのではないだろうか。

 されば当然のこととして、対象となった大和の歴史・土地事情もふまえる必要がある。脇田論の荘園政策から見た考察はそこをふまえてはいるが、はじめに述べたとおり問題意識が荘園に偏っている。また氏は軍事的には否定的であるが(22)、松尾論の中に出てくる「軍役等のため」という惟任の言葉(23)がある以上、目的の一つとしてあったであろうことに疑いはない。

 軍役を課するため、または寺社対策であるにしろ「指出」の実行者が筒井順慶で無いということの理由を、もっと明確にする必要があるのではなかろうか。これは安国氏のいわれる、この期に及んでなぜ大和統治が「興福寺官符衆徒」筒井順慶であるのか、という問題とも関わってくる(24)。政策別個の独自性だけでなく、織田政権の大和統治の2面性と言う問題も含めた考察が必要となる。

そこで次に筒井氏の性格を大和の歴史もふまえて検討してみたい(25)。
posted by taigon at 07:33| Comment(0) | TrackBack(0) | 第一章 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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