2007年07月03日

第一章 二節

第2節 筒井氏の性格

 中世大和は興福寺の権勢の下にあった。興福寺は春日社と結ぶことで権力を揺るぎないものとし、大和の守護権を有するまでになっていた。力で荘園を拡大し、大和各地の寺社を末寺・末社とし、さらなる権力基盤を固めていった。

 また各地の成長しつつあった在地国人たちは、私有地争いから個人では勢力を維持しきれなくなってきており、土地など寄進して宗教権力に保障されることで、周囲をまとめ実力を強めていった。彼等は衆徒国民と呼ばれ、寺門に管理されるところとなった(26)。

 南北朝の争乱は、そんな寺門の権力を著しく削ぎ、実力を持ち始めた衆徒国民等は荘園を基盤に軍事化し、武士として成長を始めた。さらに大名化し党を結成するに至る(表2)。筒井氏はそのうちの乾脇党の党首的立場にあった。彼等は勢力争いに終始するが、他国の勢力の侵入により、その宗教的権力下で成長してきた大和の国人達は「神国大和」の観念の下団結を強めた。

 このころの大和での国人同士の勢力争いは、官符衆徒権を巡っての争いが中心であった(27)。官符衆徒の頭領となることで、興福寺の宗教権威をもとに一族・諸豪の統制を可能にするという、大和の特性の現れである。寺社の衰退により国人領主権が強まったが、その国人達が、宗教権威を拠り所に権力を強めるという形がおき、再び寺社の権威が強まるという様を呈していた。

 官符衆徒の権力は、筒井氏が(紆余曲折を経ながらも)ほぼ握っていた。

 さて、信長の上洛当時は松永氏が大和で威勢を示していた。

 松永久秀の大和乱入は永禄2年(1559)である。はじめ信貴山城を拠点に大和の侵略を行っていたが、同3年(1560)頃には、多聞城を築き奈良の具体的支配にのり出す(28)。安国氏の述べられたところによると、その権力は「興福寺の上級権力」であったらしい。それは「興福寺の知行を否定しないものの、その上に立つ権力」であったとされる(29)。信長の上洛はそのころであり(30)、大和の一国支配を松永氏に委ねた(31)。

 信長の大和支配の経過としては、まず松永氏に援軍を送り大和諸氏を攻め(32)、奈良の町や法隆寺などに対して矢銭をかける(33)などその権威を示していた。

 ところが久秀が信長に離反を示すと、筒井氏をはじめ大和国人は信長に近づきその配下になっていく。また順慶に至っては、織田政権下の武将と姻戚関係を結ぶなどその関係はますます強まった(34)。信長は大和に対し、その後たびたび法隆寺などに矢銭を課すとともに国衆に対しては出兵を令した(35)。順慶が大和を委任されるとその頻度は増し、各地を転戦していくことになる(表3)。もはや大和一国の軍事は順慶に任せられ、信長の一将としての存在感が強まっていった。

 しかし順慶の大和での立場はあくまで官符衆徒であり、若宮の祭礼に参加し、また以前のごとく奈良寺中に配下の中坊氏を置き(36)、検断権を保持していた。興福寺も順慶の大和守護を慶び(37)、彼の出陣の際には、無事を祈り祈祷を欠かさなかった(38)。

 筒井氏が大和を支配することにより、興福寺もかつての宗教権威を取り戻し、筒井氏はそれをもとに国衆をまとめていたといえる。その宗教権威を復活させたのは信長であるといえるのだが、彼は寺社に対してその経済力に対する矢銭をかけ、国衆に対しては兵力を要求し、他国同様その拒否を許さなかった。大和の者も拒まず答えていった(またそこには平和的に解決しようとする奈良の住民の姿があった(39))。

 大和統治を2種類に区別して考えると、強大な荘園をもとに経済力を有する寺社と、寺社の宗教権力のもと成長し、兵力動員能力を有した国人に分けられる。
 それぞれは互いに密接した関係を存続させながらも、性格は全くの反対であることがわかる。寺社の頭が興福寺であり、国人の頭が筒井氏である。

 中世前期の段階で国人は衆徒国民と呼ばれ、兵力は寺社の管理するところのものであったが、後期になると国人それぞれが独立して勢力を有しており(党を結成していたことを述べた)、この時点(天正8年)においては筒井氏がほぼ実権を持って、国衆等を率いて織田政権に貢献していた(しかしまだ完全に大和の統一がなされたわけではない(40))。

 結果、統一政権として大和を支配する場合、直接兵力を動員させている筒井氏と、奈良の都市を支配し、巨大な荘園を基盤とした経済力を有する寺社とは、それぞれ別に把握する必要が出てきたと想像される。

 『多聞院日記』に見ても、各々の石高の表記に、寺門分と在郷国人分を分けてまとめている(41) (表4)。信長の朱印状の内容についても、「寺社領」が安堵された、と記してある(42)。これこそが大和の特殊性でありその2面性といえるのである。

 しかしこの時点においても、なお筒井氏は官符衆徒の位置を脱しきれていなかったことは見てきたとおりである。
posted by taigon at 07:38| Comment(0) | TrackBack(0) | 第一章 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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