2007年07月05日

第二章 一節

第2章 大和支配と郡山

 1章では筒井順慶が郡山に入城するまでを見てきた。ここでは郡山を拠点とした、信長の意図を解明していく。

第1節 郡山への着眼

 天正8年の「一国破城」「大和指出」は、信長自身が大和の特性を把握した上で、計画的に大和統治にのり出したものであった。それは寺社に対しては旧権限を安堵し、国人に対しては反乱分子の除去など、筒井氏を中心とした軍事編成の強化を目指した。

 郡山がこのような一連の政策の中で選ばれたことは、計画的選択であったはずであり、大和の唯一の城郭(46)、つまり政権の大和統治の拠点として置かれたであろう事に疑いはない。

 大和の歴史を振り返ると、名実ともに支配していたのは興福寺であり、これら寺社の門前町として発達した都市奈良に、大和のおよそ総ての機能が集中されていた(47)。

 国内各地の国人館、田舎市等の総てが奈良に求心的な方向を示していた。近世城下町郡山の出現は、この意味において、豊臣政権下での奈良町弾圧等が研究対象として取り上げられるのだが(48)、郡山を大和の拠点とした信長の意図が考察されないでいることは、はじめに述べたとおりである。

 そこで2章では、郡山選択の具体的な理由について、引き続いて考察して行く。

 考察の意義について整理しておくと、まずひとつめは、日本で恐らく初めてであろうと思われる、計画的な一国規模の城わり(永禄11年の伊勢の場合戦後処理や敵せん滅の色が濃く、計画的とは言いづらい)であり、その中で唯一選択され残された城(土地)であるということ。

 第2に、これが計画的に選ばれ残されたという事は、すでに築城された安土城等のような都市建設における計画性と、何らかの政策的共通点が見いだせるのではないか。つまり政権の性質を反映しているのではと想像される。

 第3に、信長の死後(織田政権の終結後)も、変わることなく(もしくはそれ以上に)重要な地として存在していたという点である。このことは、後に城下町として発展する要素を以前から有していたはずであり、その理由を解明する必要が出てくる。
 これをもう少し補足すると、政権の交代により、安土→大坂→江戸と行政の中心は移動して行き、郡山の位置的な性格も政権の方針により変わっていったはずであるのに、整備されることはあっても取り潰されることはなかった(49)。このことはこの地に何らかの発展の要素があったのであろうと想像されるのである。

 第4に、ややもとに戻るが、大和という特殊な地において配置されたという事である。神国と呼ばれた大和に「武家」の拠点を配備した意義は大きい。

 結論的にいってしまえば郡山選択の背景には、安土のような計画性(ここでは城下町建設の計画性ではなくその配置した位置)があったはずであり、それは大和という特殊な地において、武家の城下町としての新都市建設という目的が考えられ、その最適地として選ばれたのが郡山であったと考えられる。

 神国と称された大和に、武家統一政権が計画的に実行したであろうこの新都市建設の意義は、極めて高いと言えるのではなかろうか。



 そこでまず、なぜ大都市奈良ではなく、また筒井氏の居城であった筒井城でもなく郡山にする必要があったのかを考えたい。その考察の前に、これが織田政権による選択であったことの確認をしておく。

 『郡山町史』によれば筒井順慶が、天正7年頃から地理的条件から、その居城とするべく郡山城の整備をすすめていたと述べている(50)。

 その根拠にあるのが『多聞院日記』天正7年8月1日条の多聞城の石を筒井に持ち帰るというものである。またその後の郡山城についてふれた著書も、恐らくこの『郡山町史』の記述をもとに述べられていると思われる。つまり順慶が郡山を選んだとされる歴史認識が一般となっている。しかしそれでは信長の計画的選択と呼べず、また意図したところが見えなくなる。

 『多聞院日記』を見ればわかるのだが、多聞城の石は筒井城に持ち帰られたところまでしか記しておらず、信頼できる史料からは今のところ順慶が郡山を整備していたという記事は見あたらない。

 また筒井城破却の際の「筒郷上下物ヲ隠震動也云々」(51)というような騒動を見ても、仮に郡山城を利用する気はあっても、本拠を移すというところまでは考えていなかったと見て良い。

 さらにその後の順慶郡山入城の際「信長上使来渡之了」(52)とあるように、郡山城は完全に信長から与えられたという形をとっている。

 また郡山城築城の際に惟任光秀が、信長に目付として派遣されている事から(53)、この配置が信長による選択であったと見てまず間違いない。以上の点を確認してから、郡山選択の理由を考察していく。


 なぜ郡山を選んだのかについての過去の見解も簡単にまとめておく。『郡山町史』他ほぼ一致して、順慶が筒井城の不備を補うため、またはただの政治的中心で経済的、軍事的にはその最も適した地ではなかったとしている(54)。結局ここには信長の意図には全くふれられていない。

 そこで過去の城郭研究などを頼りに、その他の城に可能性がなかったのかを見ておきたい。ここでは、村田氏の研究されたところから引用する(55)。

 中世大和にはおよそ300以上もの城郭が存在していたのだが、破城により郡山城を除き総て天正8年に破却された。それ以前の主だった城郭は、筒井氏をはじめ、諸氏の大規模な城郭のほとんどが国中周縁部の高所に(中世山城として)存在していた(図1)。

 それら諸城は大和国中をにらむものがほとんどで、その縄張りの基本は国中に向かって設けられていた。これは氏のいわれる「根小屋式」(56)であるので、筒井氏に軍事権を統制せんとするいま、国中制覇のための軍事的要素の強い城郭はそれ自体、無意味なものとなっていたと考えられる。大規模山城はまた、ほとんどが国中平城の後詰めの城であったため、防御力はあるものの、近世城郭たる城下町の建設や政治的館に適さないものであった。

 つまり大和の拠点たるべき城は国中に存在しているべきで、その範囲において考えられる位置は、いくつかあげられるものの、「奈良」を念頭にいれて考える場合、国中北部が有利と考えられる。その周辺は筒井氏が筆頭である乾脇党の勢力範囲であった。以上の点に関しては考えれば、筒井氏の勢力内で選択されたという可能性も考えられる。


 次にその他の問題について整理しておく。信長は大和支配の初期は多聞城をその拠点としていた(表5)。それが原田(塙)直政の死後大和が筒井順慶に与えられるにあたって、多聞城の破却を行っている(57)。

 原因として考えられることは、大和を筒井氏に与えることにより存在価値が無くなったか、またはまだもとの松永氏が信貴山城に存在しており、その老獪な性格からいつまた裏切るともしれず(58)、その牽制のためにもとの居城の破却に及んだものとも考えられる。

 また筒井城ではなかったことについても検討しておかないといけない。諸先学の述べられているとおり、恐らく大和一国規模の拠点とするには、例えば水害の問題など地理的条件の問題もその理由の一つとしてあげられる(59)。さらには「国人の在地からの引き離し」の対象としてもちろん筒井氏も含まれていたことの証拠となる。

 ここまでは条件面で適さない土地についてまとめてみたが、次に郡山を選択することによってのメリットと、郡山選択にも問題がなかったとは考えられないのでその点について考察していく。

 そもそも順慶が郡山に入城するには、一つの障害があった。それは郡山衆の存在である(60)。郡山衆ははじめ越智氏方の勢力であった中殿と、筒井氏方であった辰巳殿との間で抗そうが絶えなかった。
 その後明応年間(1492〜1501)に中殿が筒井氏に滅ぼされてから、筒井氏の支城的な役割を担ってきた。

 しかし松永の大和乱入の際、辰巳殿がその手引をした事がきっかけで筒井一党としての団結力は弱まった。その後は郡山衆の筒井党への復活を許され対松永戦の拠点として守り抜かれるのだが、順慶の郡山入城の際辰巳殿は生害させられている。「多聞院日記」の著者英俊はこれを永年の恨みと見ているが(61)、それ以外に郡山衆の影響を一蹴するための措置として、当時郡山で一番勢力の大きかった辰巳殿を滅ぼしたとも考えられる。これは筒井氏の意志による行動であるが、信長の国人の在地からの引き離し政策に基づいたものでもあったであろう。

 この居城の移動を他の信長のとった実例と比べてさらに検証していきたい。例として安土城を主に取り上げることとする。
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posted by taigon at 11:41| Comment(0) | TrackBack(0) | 第二章 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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