2007年07月07日

おわりに

おわりに

 都市史的に考えれば、大和での諸政策を総合的にみて、奈良の経済力を多分に温存しながら新都市建設を行うという方針であった。

 これは座商の権限を安堵しながらも、実際には座商に対抗する競争市場(武家の城下町)を成立させ、その位置を流通路の要に据えることでそれを確保し、経済の中心を随時新都市郡山へ移行させることが目的だったと思われる。

 そうすることで経済の再編、武家による統制を行おうとしたものであろう。ここに「一国破城」とは、「破」文字から破壊の方に目が行きがちになるが、しかしそこには、宗教都市奈良に対抗できるだけの武家の都市として、一国規模の城下町として「建設」し、成立させることにあったと理解できるのである。

 ただし新都市で成長し統制されるのは、商人(いわゆる商品販売及び運搬)であり、奈良にはその他の生産者である職人衆が多く残っていた。

 それでも彼らは本所と密接に関わりながらも、安土築城などの時にはその都度召集されて働いていた(84)。その意味で座を結んでいながらももはや本所を経由しなくても行動できる存在であり、寺社よりも強力な権力に安堵されることで独占権を強めていった。

 大和を念頭におきながら織田政権を考えると、支配される者達はすべて身分の分離へ進んでおり、新政権のもとへ再編される方向性を示していた。

 郡山城建設はそのシンボルでもあり、荘園制の中で成長してきた国人を政権により一つの軍隊として筒井氏の下へ統制させ、筒井氏の居城とし、商人は新しい都市を基盤とした競争によって新興商人を城下に集めた。職人衆も、寺社領も統制され、その経済力などを利用された。

 それらはすべて朱印状による安堵という言葉で、徹底的な破壊には至らず旧来のものを多分に温存しながらものであり、まさに「再編」と呼べるものであった。

 これは大和の特殊性に起因しているものと考えられた。この時点においてもなお複雑な支配権と土地制度を有していた大和も、天正8年の両政策による「石」高と「郡山城」という政権による統一されたところに集約され、一元的に支配された。

 ここで発生した矛盾や問題点(85)は、豊臣政権により解決される中で全国規模の統一がなされていくのだが、大和においては天正8年に始まった石高表示と郡山城の整備は信長の政策の上になされる(86)。

 ここに天正8年の両政策の重要な意義があるのであり、この年をして大和の画期であるといえるのである。

 今後の課題として、天正13年の楽座令に見える郡山の座の破棄令など、郡山に座の存在を示す史料も見えることから(87)、天正8年〜13年までの順慶在城中の郡山城下の政策など、この間の「史料」による具体的な裏付けとその検証が、織田政権を述べる上でも、大和の近世への移行を考える上でも重要な意味を持っている。その発見と成果が待たれるところである。
posted by taigon at 11:44| Comment(0) | TrackBack(0) | おわりに | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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