2005年11月18日

はじめに

近世城下町大和郡山の発展は、天正8年(1580)の、後世でのいわゆる「一国破城令」により、織田信長が大和の中心として郡山を選んだ事により始まる。
数ある城館の中から郡山城を選んだ信長の意図とは一体どこにあったのだろうか。

中世以前から、宗教都市奈良を中心として発達してきた大和は、興福寺が守護として一国を支配するという、日本において政治都市京都などと共に特殊な地として存在した(1)。両地は後に経済都市として発達した点においても共通している。

織田政権論をひもとくと、京都に関する論考は多数あるが、大和に関しては、「大和指出」をもとに荘園制支配と土地制度について論究した脇田修氏(2)、さらに「一国破城」も絡めて統一政権による軍事的支配権についてまとめた松尾良隆氏(3)の研究があげられる程度である。また興福寺権力の変遷について織田政権を関連付けたものとして、安国陽子氏(4)、幡鎌一弘氏(5)などの研究があげられる。

元々大和と織田政権の関係を論じる場合、対寺社政策の問題が中心であった(6)。
この問題は避けては通れないものであるが、しかし、そこに目を奪われ過ぎてはいないだろうか。またいずれもが、「指出」を対象に論じられている傾向にある。
「一国破城」について論究したものとしては、松尾論を除くと皆無に近い。松尾論も、郡山一城残しについては「郡山城が近世城郭へと変容して行く過程」(7)くらいの見解を示されているのみに過ぎない。

以上のことは史料上の制約によるところが大きい。
多くが『多聞院日記』に代表される、寺門の僧による日記類に頼るしかない現状にある。しかし、他にも確実に痕跡が残されている。郡山の地理的条件などに、織田政権の諸政策を照らし合わせることで、信長が何故郡山を選んだのかが見えてくるのではないか。

「一国破城」は、それまでの大和の勢力図を大きく塗り替えた。
実際の近世大和の始まりといえるのは、豊臣政権下において、天正13年(1585)の筒井氏の国替え(8)による豊臣秀長の郡山入城後の諸政策によるところが大きい。
だが、一貫して郡山を大和の中心としている事は信長以来のことである。信長が大和支配の中心として郡山を選んだその理由を解明することによって、織田政権による大和支配のあり方、または従来研究対象とされることの少なかった大和における都市(城下町)政策の一端が見えてくるのではないかと思われる。

以上の様な点に関し、史料残存上の制約に留意しながら本論に入るわけであるが、主に『多聞院日記』を読み直すこととし、古地図の利用や、地理学・考古学など他の分野の研究等も参考にし、諸先学の成果もふまえつつ大和が統一政権に再編されていく過程を見直すのが、本論の目的である。
posted by taigon at 21:04| Comment(0) | TrackBack(0) | はじめに | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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