2007年07月04日

第一章 まとめ

以上2節に渡り考察してきたが、ここで1章のまとめを行っておく。

 この大和で行われた両政策は、時期的にも内容においても、性質については諸説あるが、重要な意味を有していたことについては、研究者の間で一致した見解である。

 ここでは主に「一国破城」と「指出」の実行者の違いに注目し、その意味を検討してきた。それは一職支配権に基づき実行されるべき「指出」を筒井氏が行っていないことに、大和の歴史・土地事情に関係しているのではないかという想像によるものであった。

 結果、筒井氏の性格上対象となる寺社よりも上級の権力として存在し得ないものであったからであると考える。「一国破城」については、以前より大和の軍事指揮権を有していたことにより、順慶自身が対象となる国人よりも上級権力であったからであろう。

 また、大和の国人達は寺社荘園領に依存しつつ成長してきており、この段階においてもそれらの区別は明確ではなかった。信長は天正8年の両政策で、より統一的に政権に組み込むことを目的に、「指出」では奉行を任命し、政権側からの「目録」の提示によって統一的に整理し、収入を石高で表示させた。
 結果、国人に対しては石高から兵力の動員能力を、軍事能力を持たない寺社に対しては、荘園を基盤とした経済力の把握をしようとしたものと考えられる。

 その意味で「破城」は、未だ統一しきれていない大和で、一国規模の軍隊を編成する為であり、統率者として順慶が行い「指出」の前提とした。さらにそれを強固なものとするために、その後も国人の粛正など行い、新領地を筒井氏に宛てることで彼の知行を増やし、また与力を指名するなどに及んだ。その結果、信長のとった措置は、寺社の旧権限の安堵と、大和一国「筒井存知」であった。

 信長はここで、順慶に軍事統率者としての位置づけを行ったと見て良い。寺社に対しては政権自ら管理下においたものであろう。

 このことは一国存知となった後も、筒井氏の権限として国人の編成は見られるが、荘園つまり寺社領にたいしての(筒井氏による)知行宛などがみられないのを見てもわかる(しかし官符衆徒として、寺社に対する検断権を有していた)。ここに大和統治の2面性が見られるのである。このことは以前から政権として寺社領安堵の朱印を出していたことにもつながる(43)。

 つまり天正4年の「任置」の時点(44)から、寺社領に関しては政権が直接に、軍事権は順慶へという構図が出来ていたと見て良い。これをここで初めて統一的に、一国規模で把握しようとしたものであったであろう。


 これらの政策の特徴が織田政権にとってどういう意義付け(つまり、政権が戦国大名的であるとか無いとか)をなすかという論究については、政権をもっと総括的に見て行かなければならないことであるのでここではふれない。


 以上天正8年の両政策について、過去の研究から軍事権や土地支配について考察してきた。次に残された疑問「郡山に着眼した信長の真意」を探っていく。

 そこでは新都市建設の意味をより深く理解するため、現在まで研究されている大和の流通・都市論をもとに考察していく(45)。
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2007年07月03日

第一章 二節

第2節 筒井氏の性格

 中世大和は興福寺の権勢の下にあった。興福寺は春日社と結ぶことで権力を揺るぎないものとし、大和の守護権を有するまでになっていた。力で荘園を拡大し、大和各地の寺社を末寺・末社とし、さらなる権力基盤を固めていった。

 また各地の成長しつつあった在地国人たちは、私有地争いから個人では勢力を維持しきれなくなってきており、土地など寄進して宗教権力に保障されることで、周囲をまとめ実力を強めていった。彼等は衆徒国民と呼ばれ、寺門に管理されるところとなった(26)。

 南北朝の争乱は、そんな寺門の権力を著しく削ぎ、実力を持ち始めた衆徒国民等は荘園を基盤に軍事化し、武士として成長を始めた。さらに大名化し党を結成するに至る(表2)。筒井氏はそのうちの乾脇党の党首的立場にあった。彼等は勢力争いに終始するが、他国の勢力の侵入により、その宗教的権力下で成長してきた大和の国人達は「神国大和」の観念の下団結を強めた。

 このころの大和での国人同士の勢力争いは、官符衆徒権を巡っての争いが中心であった(27)。官符衆徒の頭領となることで、興福寺の宗教権威をもとに一族・諸豪の統制を可能にするという、大和の特性の現れである。寺社の衰退により国人領主権が強まったが、その国人達が、宗教権威を拠り所に権力を強めるという形がおき、再び寺社の権威が強まるという様を呈していた。

 官符衆徒の権力は、筒井氏が(紆余曲折を経ながらも)ほぼ握っていた。

 さて、信長の上洛当時は松永氏が大和で威勢を示していた。

 松永久秀の大和乱入は永禄2年(1559)である。はじめ信貴山城を拠点に大和の侵略を行っていたが、同3年(1560)頃には、多聞城を築き奈良の具体的支配にのり出す(28)。安国氏の述べられたところによると、その権力は「興福寺の上級権力」であったらしい。それは「興福寺の知行を否定しないものの、その上に立つ権力」であったとされる(29)。信長の上洛はそのころであり(30)、大和の一国支配を松永氏に委ねた(31)。

 信長の大和支配の経過としては、まず松永氏に援軍を送り大和諸氏を攻め(32)、奈良の町や法隆寺などに対して矢銭をかける(33)などその権威を示していた。

 ところが久秀が信長に離反を示すと、筒井氏をはじめ大和国人は信長に近づきその配下になっていく。また順慶に至っては、織田政権下の武将と姻戚関係を結ぶなどその関係はますます強まった(34)。信長は大和に対し、その後たびたび法隆寺などに矢銭を課すとともに国衆に対しては出兵を令した(35)。順慶が大和を委任されるとその頻度は増し、各地を転戦していくことになる(表3)。もはや大和一国の軍事は順慶に任せられ、信長の一将としての存在感が強まっていった。

 しかし順慶の大和での立場はあくまで官符衆徒であり、若宮の祭礼に参加し、また以前のごとく奈良寺中に配下の中坊氏を置き(36)、検断権を保持していた。興福寺も順慶の大和守護を慶び(37)、彼の出陣の際には、無事を祈り祈祷を欠かさなかった(38)。

 筒井氏が大和を支配することにより、興福寺もかつての宗教権威を取り戻し、筒井氏はそれをもとに国衆をまとめていたといえる。その宗教権威を復活させたのは信長であるといえるのだが、彼は寺社に対してその経済力に対する矢銭をかけ、国衆に対しては兵力を要求し、他国同様その拒否を許さなかった。大和の者も拒まず答えていった(またそこには平和的に解決しようとする奈良の住民の姿があった(39))。

 大和統治を2種類に区別して考えると、強大な荘園をもとに経済力を有する寺社と、寺社の宗教権力のもと成長し、兵力動員能力を有した国人に分けられる。
 それぞれは互いに密接した関係を存続させながらも、性格は全くの反対であることがわかる。寺社の頭が興福寺であり、国人の頭が筒井氏である。

 中世前期の段階で国人は衆徒国民と呼ばれ、兵力は寺社の管理するところのものであったが、後期になると国人それぞれが独立して勢力を有しており(党を結成していたことを述べた)、この時点(天正8年)においては筒井氏がほぼ実権を持って、国衆等を率いて織田政権に貢献していた(しかしまだ完全に大和の統一がなされたわけではない(40))。

 結果、統一政権として大和を支配する場合、直接兵力を動員させている筒井氏と、奈良の都市を支配し、巨大な荘園を基盤とした経済力を有する寺社とは、それぞれ別に把握する必要が出てきたと想像される。

 『多聞院日記』に見ても、各々の石高の表記に、寺門分と在郷国人分を分けてまとめている(41) (表4)。信長の朱印状の内容についても、「寺社領」が安堵された、と記してある(42)。これこそが大和の特殊性でありその2面性といえるのである。

 しかしこの時点においても、なお筒井氏は官符衆徒の位置を脱しきれていなかったことは見てきたとおりである。
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2007年07月02日

第一章 一節

第1節 政策の内容

 それではまず『多聞院日記』にそって、その経過を明らかにしておく(10)。


 天正8年8月、およそ10年に及んだ本願寺戦の終結を迎える(11)。その直後に実行されたのが河内・摂津・大和の諸城破却である(大和を対象として「一国破城」と呼ぶ)。

 まず8月2日、石山本城が焼失しその終結を迎える。この日京都において筒井順慶が、織田信長より大和及び河内・摂津の諸城の破却を命じられる(12)。同16日に大和に戻った順慶は、翌日より居城の筒井城の破却に取り掛かかりる(13)。「当国悉以可破云々、郡山一城迄可残云々」とあるごとく、その対象は筒井氏の居城といえども例外ではなかった。そして同20日には「国中大旨破城云々、無所残歟」(14)という結末を迎える。

 続いて約1ヶ月後の9月25日、信長の命を受けた滝川一益・惟任光秀の両人が奉行として大和に入り、翌日にはその詳細が示され(15)、大和一国規模での指出検地が行われた(これを「大和指出」と呼ぶ)。10月23日には、ほぼ完了するに至る(16)。同28日指出奉行及び筒井順慶によって、戒重など国人4名が生害させられる(17)。これは「指出」に抵抗したものか、織田政権による危険分子の除去と受けとめられる。

 11月2日に任務を終えた滝川・惟任両名が大和を発つ(18)。そして『多聞院日記』同9日条に見る「昨夜安土ヨリ慥ニ注進状来、寺社領聊不可有違乱如先規ト、并順慶ニハ郡山ヘ可有入城、箸尾ハ順の与力ニナレト、国中一圓筒井存知ト七日ノ申刻ニ御朱印給云々」という信長の朱印が下され、総て終結する。

以上のような経過で行われた。


両政策の性格について、脇田・松尾両氏の見解について、松尾論のまとめられたところを頼りに政策の内容をまとめておく(19)。

「一国破城」は
1石山合戦の戦後処理として行われた。
2それは大和盆地を中心とする地域に散在する国人衆の居城の破却を対象とした。
3郡山一城以外の城郭を残らず破却した。
4破却内容は「作事」面にとどまり「普請」面にまでは及ばない。
とされた。

次に「大和指出」については
@指出は天正8年9月26日書式指示に始まり、10月23日の上使承認をもって完了する。
A指出は朱印状によって、信長の上意として実施された。
B上使からは具体的に詳細な指示が相次いで出され、その指示通りに「指出本帳」では、田畠屋敷とも「歩数」「得付・字・百姓」が記載され、米以外の収納物も米高表示された。
C指出は在地の知行関係に詳しい者の召出し、「古帳」の提出など徹底した厳密さで実施された。
D指出文書は各荘園・知行内容別の「作帳」「一紙目録」→「指出本帳」「指出一紙目録」という手順で作成された。
E指出文書の記載内容は在地が荘園制そのものであることを示す。
F指出では天正7年(1579)の年貢高(収納)が申告された。
G指出は大和1国を対象として実施された。
 以上が内容のすべてである。


 次に各々の見解に移る。まず織田政権の対荘園政策を論じた脇田氏は、BEから「実態は旧来のままでありながら、新形式で把握した」点にその織田政権末期の「大和指出」の意義を見出された。

 松尾氏はこれを批判する形で、BGこそ重視したいとされ、脇田氏の荘園制を容認したという結論に対し、それではあまりに消極的であり、なぜ「厳重之急」をもって臨む必要があったかと問われた。そしてBに見えるように「指出」の重点が知行高の厳密な把握にあった点と大和一国の全領土を対象とした点にも重視し、その知行高の把握は、国人衆に対する軍役などの賦課を目的として行われたとされ、織田政権が「厳重之急」をもって、「一国破城」と「指出」を実施したのは、更なる過重な軍役に対応できる大和軍団を創設するためであったされている。
 「指出」は軍役等の賦課台帳の作成を目的にしており、「一国破城」は大和の軍事・政治の支配拠点の整備を目的として行われそれらが相まって、大和における軍制の確立に両政策の目的があったのだと結論付けられた。

 両論の共通点は、天正8年という年が政権にとって画期となった年であり、この年に実行された両政策は、またその内容から見ても重要な意味を持っていたとされていることであり、ここに疑う余地はない。ここで考察の内いくつか見逃されていると思えるものについて検討を行いたい。その1点は本論の主題でもある「郡山一城残し」についてであるが、これは2章で具体的に考察したい。


 さて考察内容を見ていくと、両政策の実行者の違いについて何の見解も示されてはいない。脇田氏の場合、政策の関連性自体、特に述べられていないので別として、松尾氏の見解は、両政策の関連性を重視した考察であるにも関わらず、特に問題にはされていない。理由はわからないが、政策の性格上見逃してはならないと思われるので考察しておきたい。

 政策の内容を振り返ってみると、その実行者が別であることに気付く。このことは一見問題無さそうである。しかし織田政権の基本と照らし合わせたとき、やや特殊な意味を持ってくる。「一国破城」の実行者は筒井順慶である。これは特に問題とされるところではないであろう。すでに天正4年(1576)から大和一国は順慶に任せられていた(20)。問題は、「指出」が信長から任命された新たな(順慶ではない)奉行によって行われたことである。

 織田政権の基本方針としては、脇田氏の述べられているところの、いわゆる「一職支配権」(21)に基づき任命された、その国の統率者(今、大和は順慶)が検地などを行うこととしていた(表1)。このことは、政策命令者が信長であろうとも変わらない。しかし天正8年の「大和指出」では過去に例を見ない2名の指出奉行の任命がなされている。つまり、本来なら筒井順慶に命じられるはずである「指出」が、「上意」を受けた2名の奉行によって実行された。実行者の違いは両政策が関連しながらも独立していることを意味し、それは織田政権内でも特別な方法で行われた。これは大和であるということに関係するのではないか。

 松尾論でも両政策の独自性を考察した上で、関連性を重視するべきであると述べられてはいるが、あくまでも軍役にこだわっている。両政策の関連性は、松尾氏もいわれているとおり、どちらも一国規模で行われていることにある。ならば軍役のみを対象として考えるよりも、政・軍・経を総括してとらえて初めて理解できる問題だといえるのではないだろうか。

 されば当然のこととして、対象となった大和の歴史・土地事情もふまえる必要がある。脇田論の荘園政策から見た考察はそこをふまえてはいるが、はじめに述べたとおり問題意識が荘園に偏っている。また氏は軍事的には否定的であるが(22)、松尾論の中に出てくる「軍役等のため」という惟任の言葉(23)がある以上、目的の一つとしてあったであろうことに疑いはない。

 軍役を課するため、または寺社対策であるにしろ「指出」の実行者が筒井順慶で無いということの理由を、もっと明確にする必要があるのではなかろうか。これは安国氏のいわれる、この期に及んでなぜ大和統治が「興福寺官符衆徒」筒井順慶であるのか、という問題とも関わってくる(24)。政策別個の独自性だけでなく、織田政権の大和統治の2面性と言う問題も含めた考察が必要となる。

そこで次に筒井氏の性格を大和の歴史もふまえて検討してみたい(25)。
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2007年07月01日

第一章

第1章 「一国破城」と「大和指出」について

 ここでは、「郡山一城残し」に至る過程について、「一国破城」「大和指出」両政策の性格にもふれながらその内容についてまとめておく。この詳細はすでに脇田・松尾両氏が述べられているところである(9)ので、その研究成果によりつつ考察していくこととする。そして大和における天正8年という年の史的意義、さらに政策の特徴について明らかにしていきたい。
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