2007年07月06日

第二章 二節

第2節 流通支配と郡山

 一般に安土城は、織田政権の城下町政策の基本形として捉えられている。その後築城された城郭は「織豊系城郭」と呼ばれ(62)、総て安土城をその指針としているといわれる。

 郡山城については、その城下町政策に関する史料が信長期のものは現存していないので知るすべをもたないが、築城に関しては他の同時期の城郭と比べても、また先にも述べたとり、光秀が築城の目付に来ていることからも、ほぼ織田政権の基本政策にそっていたと考えて間違いない。

 それは城郭配置に見ても同じであると仮定しておく。そこで織田政権の城郭、または都市の配置から郡山の位置的考察を試みたい。

 安土の選択理由の一つとして、街道を押さえることによる流通支配が根底にあったことは有名である。岐阜・京都間の街道確保が第一目標であり、その為に近江の支配が必須であった。また北陸へ抜ける要でもあり、琵琶湖を利用することもその理由であったといわれており、軍や商人など流通の押さえとして流通路の確保にあった。郡山もそうした点にあてはまるであろうと想像できることは先に述べたとおりである。

 そこで郡山の位置を流通路にそって考察していく。

 はじめにも述べたとおり、大和の流通は奈良に求心的な方向を示していた。それは大和国内のみでなく、周辺の各国との流通でもいえる。それぞれの都市は密接に関わり合っており、相互関係を維持しつつ発展してきた。今大和の流通を考えるとき、奈良の存在を無視しては考えられないことは当然のことである。もちろん信長もそう考えていたであろう。

 古地図などから、郡山は堺・奈良間の流通路上に存在していたことが知れる(図2)。周知の通り、信長は堺の経済力に注目していた。さらに大和を押さえるのあたって、奈良の外港である堺との流通路(63)を支配するのは必然的である。

 郡山の古地図に見てみると、そこにはっきり堺街道と記されたルートが存在している(図3)。この街道はそのまま北へ抜けると恐らく奈良へ向かうルートであったと考えられる。

 またここは奈良(地図の北)から来た場合、堺と筒井とへ向かう街道の分岐点であったらしく、その目印として「五本木松」なるものを記している(64)。

 この「五本木松」を通るルートは、西から奈良へ向かう道として軍勢も利用していることを『多聞院日記』(65)や『細川両家記』(66)にも記している。このことは奈良へ向かう商人も利用したことが窺われ、街道として発達していたと考えられる。この要に城を築くことは、安土や金森寺内町のような織田政権の政策と一致しており、明らかに街道支配を狙ったものといえよう。

 そうした中で郡山が、「一国破城」以前に、すでに都市的機能を持ちつつあったことを窺わせる記事もある。

 郡山で勧進能が興行されたというのがそれで、『多聞院日記』天正8年2月26日条に「郡山勧進能在之、京衆ナリ、」と見える。京衆とは翌日の27日条には、「京の虎屋」であるとしている。

 勧進能とは金銭利益を目的とした能の興行のことである(67)。彼等は手猿楽の衆で当時のトップスターだった(68)。その為その開催の規模はかなりものであったと思われる。このことは郡山での興行終了後、興福寺一条院門跡の慶事としてよばれ、そこで演じていることからもわかる。その時の様子が『多聞院日記』に詳細に記されているが、ここでの規模は盛大であったことが窺われる(69)。恐らく郡山も同じレベルのものであったであろう。

 一連の流れを『多聞院日記』で振り返ってみる。その著者英俊は、郡山での興行の当日すでに日記に記している(26日)。さらに翌日にはその演者まで記しており、見物に行った者もいてそこから聞いたものか。そして30日には近日中に一条院で虎屋による能を催すと決めている(70)。3月6日条には大々的に行われた模様を記している。

 虎屋はなぜ郡山で興行しようとのだろうか。次の二つが考えられる。在郡山の誰かがよんだか、虎屋自身の興行目的のために訪れたかであろう。その理由は『多聞院日記』にはその理由を記していないので知る由もないのだが、仮に自身の興行目的とすれば、奈良に近く、当時城下町として存在していた筒井からもかなり近いこの地で興行することは、利益を優先する当時の勧進能からすれば理想の地であったと思われる。ともかく、虎屋が来られるほどの条件を備えていた地であったというのは確かである。

 ここに郡山がすでに都市として機能しつつあったことが見える。またその後も発展していく要素を多分に含んでいたと考えられるのである。


 以上に見たように、織田政権による郡山選択の理由として、流通路の要(郡山)に一国規模の居城を築くことにより流通路を確保し、支配することを目的としたと考えられる。


 ここで天正8年の「指出」のとき信長の安堵という措置について、この流通政策についても具体的に考察していきたい。つまり従来いわれている「旧権限の安堵」という見解に対する疑問として、新都市建設による流通路の支配の問題が出てくるのである。

 天正8年の信長による「旧権限の安堵」という措置は、それをして楽座の不徹底であるとか、中世的であるなどといわれてきたが(71)、土地支配にしても軍役にしても1章で見たとおり、大和での実状にそった政策をとりながら、確実に政権下に再編成をすすめていた。

 それは流通政策でも垣間みられ、堺と奈良の流通上に新都市を建設するという行動にも現れている。こうしたそれぞれの意図した政策が、結果としてどのように現れたのか見ていかなければならない。


 そこで「楽座は不徹底」という認識に対して、大和で行った流通政策という観点から−新都市建設も絡めて−アプローチしたい。

 新都市建設という行為はその存在だけで、楽市楽座令の有無に関わらず、旧権限の無効を意味するといえる(72)。この行為は、郡山城より以前の永禄年間(1558〜1570)にすでに松永久秀によって行われていた。

 松永の政策は、多聞城を築くところから始まる。奈良への要所で奈良坂の見張れる眉間寺山に城を築いた久秀は、そこを拠点に奈良の諸政に管掌を始める(73)。さらに永禄12年(1569)には、城下の法蓮郷に市立ての旨を奈良の町にふれた(74)。この市は時として楽市として開かれたらしい。それは次の元亀2年(1571)の文書に見える(75)。

  「片原山預り状  坂衆  元亀二年 十月 二十八日」(樫尾文書)
    アツカリ申カタワラヤマノコト
    (中略)
御チシハタウ子ンワ十合八斗、ラヰ子ン申ノトシヨリハ、十合壹石ツゝサタ可申候、
モシタモンイチラクノトキハ、マエノコトク壹貫六百文、十月卅日ニサ申ヘク候、

 ここでは、市が楽の時は「マエノコトク」地子の「銭」納がなされたとある(76)。この市立てにより銭取引も行われ、それが座商以外の百姓も商売できる様がわかる。

 この市立ての令された永禄12年は、信長により撰銭令が出された直後である(77)。その成果自体は逆に流通の混乱を招き貨幣の流通に阻害が出るなどして、米の代銭の増加が見られるのだが(78)、しかしそれでも城下や寺社が、銭獲得に動いていることは、銭取引の一般化の傾向にあったと見ていい。

 ここに座の独占権が奈良近郊においても機能しなくなってきたことがわかる。この後法蓮市がどうなったかは史料の上では知る手段を持たないが、多聞城と同じ末路を辿ったと見てよい。

 以上のように、奈良近郊においてでも座商以外が大名城下で銭取引をしていた事実が明らかになった。これは大名領国内の城下のみでの行為であったが、織田政権の政策の影響も少なからず見られた。

 そして天正8年の郡山築城の際には、地域支配だけでなく堺・奈良という他国間の流通の支配にまで及んだ。


 この流通支配の成果と実情を見てみよう。

 天正12年(1584)といえば信長はすでにこの世になく、豊臣秀吉の時代のことであるが、大和では郡山城にまだ順慶が在城中で、信長時代の影響が色濃く残っていたと考えられる。

 この年の『多聞院日記』を見てみると、購買先としてたびたび郡山市を利用していることに気付く。塩に至ってはこの年の総てを郡山市で賄っており、しかも「今年ホト安キ事ハ不可在之」とその安さを強調している(79)。このことは何を意味しているか。中世以前より、塩の流通路は先程見た大和街道(古地図に見る堺街道と一致すると思われる)を利用して、堺から奈良へ運ばれていた。

 塩は海のない大和では生産できないものであり、これらは瀬戸内地方との遠隔地取引によって賄っていた(80)。そしてその中継点として堺津が利用された。それらは先に見た大和街道を通り座商によって奈良へ運ばれた。

 これは奈良の多くの生産も担った座(職人・工人など)とは異質な、純粋商人による座の編成になっていた(81)。この塩の流通は細かい規制がなされていた。中世塩の流通は、龍田・勢谷・立野の馬借が独占的に運搬していた(82)。堺等他国から大和・奈良方面へ運ばれる搬入駄数の最高値は本所(興福寺)によって限定されていた。これらは奈良における塩需要の自然的な制約に基づき、さらに馬借の問屋以外への密売防止策であったものと考えられる。これが塩取扱量の限定をなし、塩の高値を維持してその商売の営業の安定を確保していた。ここに座の独占と本所の経営が見られた。

 しかし、堺・奈良間の要地に登場した新都市郡山は、流通を主とする商人座に対して、巨大な競争市場としてその存在感は絶大なものとなっていたようである。つまり奈良の僧に至るまでが、郡山市にまで商品を購入するほどになっていた。

 先の郡山市の記事よりも2年前の天正10年(1582)には、「一段安」とすでに塩価の低落化が始まっていたことを窺わせる記事もある(83)。

 ここに楽座に至らずとも座の解体や衰退、再編が始まっていたのではないかと考えられるのである。この結果、奈良の塩座がどう対応したか知るすべを持たないが、恐らく郡山城下へ商売の地を求めたものと考えられる。

 こうしてみてくると、安堵された座も実は流通に関していえば、新しい競争市場の登場により新都市への再編は免れなかったものと考えていいだろう。
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2007年07月05日

第二章 一節

第2章 大和支配と郡山

 1章では筒井順慶が郡山に入城するまでを見てきた。ここでは郡山を拠点とした、信長の意図を解明していく。

第1節 郡山への着眼

 天正8年の「一国破城」「大和指出」は、信長自身が大和の特性を把握した上で、計画的に大和統治にのり出したものであった。それは寺社に対しては旧権限を安堵し、国人に対しては反乱分子の除去など、筒井氏を中心とした軍事編成の強化を目指した。

 郡山がこのような一連の政策の中で選ばれたことは、計画的選択であったはずであり、大和の唯一の城郭(46)、つまり政権の大和統治の拠点として置かれたであろう事に疑いはない。

 大和の歴史を振り返ると、名実ともに支配していたのは興福寺であり、これら寺社の門前町として発達した都市奈良に、大和のおよそ総ての機能が集中されていた(47)。

 国内各地の国人館、田舎市等の総てが奈良に求心的な方向を示していた。近世城下町郡山の出現は、この意味において、豊臣政権下での奈良町弾圧等が研究対象として取り上げられるのだが(48)、郡山を大和の拠点とした信長の意図が考察されないでいることは、はじめに述べたとおりである。

 そこで2章では、郡山選択の具体的な理由について、引き続いて考察して行く。

 考察の意義について整理しておくと、まずひとつめは、日本で恐らく初めてであろうと思われる、計画的な一国規模の城わり(永禄11年の伊勢の場合戦後処理や敵せん滅の色が濃く、計画的とは言いづらい)であり、その中で唯一選択され残された城(土地)であるということ。

 第2に、これが計画的に選ばれ残されたという事は、すでに築城された安土城等のような都市建設における計画性と、何らかの政策的共通点が見いだせるのではないか。つまり政権の性質を反映しているのではと想像される。

 第3に、信長の死後(織田政権の終結後)も、変わることなく(もしくはそれ以上に)重要な地として存在していたという点である。このことは、後に城下町として発展する要素を以前から有していたはずであり、その理由を解明する必要が出てくる。
 これをもう少し補足すると、政権の交代により、安土→大坂→江戸と行政の中心は移動して行き、郡山の位置的な性格も政権の方針により変わっていったはずであるのに、整備されることはあっても取り潰されることはなかった(49)。このことはこの地に何らかの発展の要素があったのであろうと想像されるのである。

 第4に、ややもとに戻るが、大和という特殊な地において配置されたという事である。神国と呼ばれた大和に「武家」の拠点を配備した意義は大きい。

 結論的にいってしまえば郡山選択の背景には、安土のような計画性(ここでは城下町建設の計画性ではなくその配置した位置)があったはずであり、それは大和という特殊な地において、武家の城下町としての新都市建設という目的が考えられ、その最適地として選ばれたのが郡山であったと考えられる。

 神国と称された大和に、武家統一政権が計画的に実行したであろうこの新都市建設の意義は、極めて高いと言えるのではなかろうか。



 そこでまず、なぜ大都市奈良ではなく、また筒井氏の居城であった筒井城でもなく郡山にする必要があったのかを考えたい。その考察の前に、これが織田政権による選択であったことの確認をしておく。

 『郡山町史』によれば筒井順慶が、天正7年頃から地理的条件から、その居城とするべく郡山城の整備をすすめていたと述べている(50)。

 その根拠にあるのが『多聞院日記』天正7年8月1日条の多聞城の石を筒井に持ち帰るというものである。またその後の郡山城についてふれた著書も、恐らくこの『郡山町史』の記述をもとに述べられていると思われる。つまり順慶が郡山を選んだとされる歴史認識が一般となっている。しかしそれでは信長の計画的選択と呼べず、また意図したところが見えなくなる。

 『多聞院日記』を見ればわかるのだが、多聞城の石は筒井城に持ち帰られたところまでしか記しておらず、信頼できる史料からは今のところ順慶が郡山を整備していたという記事は見あたらない。

 また筒井城破却の際の「筒郷上下物ヲ隠震動也云々」(51)というような騒動を見ても、仮に郡山城を利用する気はあっても、本拠を移すというところまでは考えていなかったと見て良い。

 さらにその後の順慶郡山入城の際「信長上使来渡之了」(52)とあるように、郡山城は完全に信長から与えられたという形をとっている。

 また郡山城築城の際に惟任光秀が、信長に目付として派遣されている事から(53)、この配置が信長による選択であったと見てまず間違いない。以上の点を確認してから、郡山選択の理由を考察していく。


 なぜ郡山を選んだのかについての過去の見解も簡単にまとめておく。『郡山町史』他ほぼ一致して、順慶が筒井城の不備を補うため、またはただの政治的中心で経済的、軍事的にはその最も適した地ではなかったとしている(54)。結局ここには信長の意図には全くふれられていない。

 そこで過去の城郭研究などを頼りに、その他の城に可能性がなかったのかを見ておきたい。ここでは、村田氏の研究されたところから引用する(55)。

 中世大和にはおよそ300以上もの城郭が存在していたのだが、破城により郡山城を除き総て天正8年に破却された。それ以前の主だった城郭は、筒井氏をはじめ、諸氏の大規模な城郭のほとんどが国中周縁部の高所に(中世山城として)存在していた(図1)。

 それら諸城は大和国中をにらむものがほとんどで、その縄張りの基本は国中に向かって設けられていた。これは氏のいわれる「根小屋式」(56)であるので、筒井氏に軍事権を統制せんとするいま、国中制覇のための軍事的要素の強い城郭はそれ自体、無意味なものとなっていたと考えられる。大規模山城はまた、ほとんどが国中平城の後詰めの城であったため、防御力はあるものの、近世城郭たる城下町の建設や政治的館に適さないものであった。

 つまり大和の拠点たるべき城は国中に存在しているべきで、その範囲において考えられる位置は、いくつかあげられるものの、「奈良」を念頭にいれて考える場合、国中北部が有利と考えられる。その周辺は筒井氏が筆頭である乾脇党の勢力範囲であった。以上の点に関しては考えれば、筒井氏の勢力内で選択されたという可能性も考えられる。


 次にその他の問題について整理しておく。信長は大和支配の初期は多聞城をその拠点としていた(表5)。それが原田(塙)直政の死後大和が筒井順慶に与えられるにあたって、多聞城の破却を行っている(57)。

 原因として考えられることは、大和を筒井氏に与えることにより存在価値が無くなったか、またはまだもとの松永氏が信貴山城に存在しており、その老獪な性格からいつまた裏切るともしれず(58)、その牽制のためにもとの居城の破却に及んだものとも考えられる。

 また筒井城ではなかったことについても検討しておかないといけない。諸先学の述べられているとおり、恐らく大和一国規模の拠点とするには、例えば水害の問題など地理的条件の問題もその理由の一つとしてあげられる(59)。さらには「国人の在地からの引き離し」の対象としてもちろん筒井氏も含まれていたことの証拠となる。

 ここまでは条件面で適さない土地についてまとめてみたが、次に郡山を選択することによってのメリットと、郡山選択にも問題がなかったとは考えられないのでその点について考察していく。

 そもそも順慶が郡山に入城するには、一つの障害があった。それは郡山衆の存在である(60)。郡山衆ははじめ越智氏方の勢力であった中殿と、筒井氏方であった辰巳殿との間で抗そうが絶えなかった。
 その後明応年間(1492〜1501)に中殿が筒井氏に滅ぼされてから、筒井氏の支城的な役割を担ってきた。

 しかし松永の大和乱入の際、辰巳殿がその手引をした事がきっかけで筒井一党としての団結力は弱まった。その後は郡山衆の筒井党への復活を許され対松永戦の拠点として守り抜かれるのだが、順慶の郡山入城の際辰巳殿は生害させられている。「多聞院日記」の著者英俊はこれを永年の恨みと見ているが(61)、それ以外に郡山衆の影響を一蹴するための措置として、当時郡山で一番勢力の大きかった辰巳殿を滅ぼしたとも考えられる。これは筒井氏の意志による行動であるが、信長の国人の在地からの引き離し政策に基づいたものでもあったであろう。

 この居城の移動を他の信長のとった実例と比べてさらに検証していきたい。例として安土城を主に取り上げることとする。
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