2005年11月17日

注釈一覧 おわりに

84 近年考古学の分野で安土城の発掘調査が進んでおり、多くの報告がなされている。

1996年9月に開催された「第2回郡山歴史フォーラム“豊臣秀長とその時代”−城・瓦・やきもの−」においては「織豊系城郭」についても報告があった。その中で安土城の建設には、大和の瓦衆、京の狩野派、近江の石垣工人等を織田政権として組織した結果、初めて建設できたものであるとされた。これらは元来寺院建築のものであり、その職人を初めて統括的に組織化して武家の城のために働かせたこの事実は、画期的であるとされた。ここでも、その組織への再編は始まっていたといえる。

85 大和の国人と寺社の結びつきは密接であり、いくら再編成しても簡単に区別できるものではなかった。つまり大和の国人(筒井氏)に国を任せることは、結局寺社の権限を復活させるものでしかないという、安国氏述べられているところを解明しないことには織田政権の本質は見えないであろう。そこでは、例えば「蓮成院記録」天正10年1月6日条に見える、信長の「大和は神国にて」という言葉も検証していかなければならない課題である。

86 ただしここで注意しないといけないのは、石高が豊臣政権下での意味と織田政権では年貢高(織田)・生産高(豊臣)の差が見られると言うことである。また織田政権と豊臣政権の違いを述べられている論も多い(例えば河野昭晶「興福寺の「枡の体系」と京枡使用例の構図」(『奈良歴史研究』45号1996.9)など)。しかし大和において天正8年という時期を見れば、その政策的差異は見られても、この年を出発点として「郡山城」を拠点に武家による支配は明治を迎えるまで続くのである。この意味において天正8年の両政策は重要であるといえるのである。

87 佐々木銀弥前掲論文 『郡山町史』等。
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注釈一覧 第二章二節

62 考古学的にこのようにいうらしい。注84に詳しくまとめることとする。

63 奈良と遠隔地流通は、主に堺・木津を港として行われたことが言われている。

64 「大和国郡山古代繪形」(楠本氏所蔵)『郡山町史』p.136

65 永禄9.4.11条に「五本松」とある。

66 『大和郡山市史』p.119より引用。ちなみにここでは『言継卿記』も併記している。

67 天野文雄著『岩波講座 能・狂言T 能楽の歴史』(岩波書店、1987)参照。以降、能に関しては同じ。能の基本知識については、近江先生にわかりやすい御教授をいただいた。ここで勧進能の簡単な解説を行っておく。勧進能とは金銭獲得を目的としている。その為に多くの富者を集めなければならず、それには彼ら(富者)が安心して見物に来られるだけの場、つまり治安の確かな所でないといけない。それ以前に、そういう富者に速やかにしかも確実に情報伝達される地でないと意味がない。また能を興行するには、かなりの広さを要する。つまり多くの見物客を集められ、その為の施設を建てられる広場がいる。

68 手猿楽とは、素人の演じる能をいう。つまり猿楽座に属す玄人芸人ではなくて素人ながら半玄人的に演じた芸人衆を言う(単なる素人はいかに上手でも手猿楽とは言わない)。このころ座衆以上に人気があり活躍した。特にここに見える「虎屋」は観世の弟子の出として有名。

69 天正8.3.6条

70 天正8.2.30条

71 一般に、かつての「中世の破壊」という見解に対する批判として言われる。

72 佐々木銀弥『日本中世都市と法』(吉川弘文館、 1994)第3章「楽市楽座令と座の保障安堵」参照。

73 安田前掲論文p.18

74 永禄12.10.29条 続いて同11.4条でも見える。

75 樫尾文書「東大寺片原山預状」(大日本史料第12編より引用)

76 豊田武著『改訂 中世日本商業史の研究』(岩波書店、1951)

77 永禄12.3.4条

78 浦長瀬隆「十六世紀後半奈良における貨幣流通−多聞院日記に見る支払い手段の変化をめぐって−」(『社会経済史学』48巻号、1982) ここで永禄12年から、急激に米による代銭が増えている様を明らかにされている。

79 天正12.6.15条

80 小野晃嗣著『日本中世商業史の研究』(法政大学出版局、1989)第「興福寺塩座衆の研究」

81 小野前掲著p.104〜109

82 平群郡を中心にこの周辺は古代より街道の発達が見られた。小野前掲著及び、山川均「大和における七世紀代の主要交通路に関する考古学的研究」(『ヒストリア』150号 1996.3)などに詳しい。

83 天正10.3.25条
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注釈一覧 第二章一節

46 豊臣政権下では郡山城の他に高取城・宇陀松山城も含めて3城あったことがわかっている。しかし天正8年の時点では織田政権下では郡山1城のみしか残されなかったであろうと思われる。発掘調査では、豊臣政権下での修築以前の中世城郭は今のところ発見されていない。また織田政権下で修築されたという史料もない。

47 脇田晴子氏や佐々木氏の研究にある「首都市場圏」などに詳しい。脇田晴子著『日本中世都市論』(『東京大学出版会』、1981)

48 例えば『郡山町史』P.202〜223等。

49 後大坂の役で一度廃城となるが、その後幕府によって再建され譜代の重臣水野氏が入り近世郡山藩として畿内でも有数の藩となる。永島前掲著 『大和郡山市史』参照。

50 『郡山町史』p.196 ちなみにここでは永島前掲著p.487を参照にしている。しかし『郡山町史』以後はまずここを参照にしていると思われる。

51 天正8.8.18条

52 天正8.11.12条

53 天正9.8.19条

54 『郡山町史』p.212等

55 村田修三「大和の城跡と国人」(『歴史読本』臨時増刊号、新人物往来社、1978.6) 同「城跡調査と戦国史研究」(『日本史研究』211号、1980)等。

56 村田前掲「大和の城跡と国人」に詳しい。

57 天正4.7.6条 松尾前掲論文及び『文書研究』648号に詳しい。

58 松永が度々裏切っていることは有名である。

59 鈴木良編『城と川のある町:大和郡山歴史散歩』(文理閣、1988)p.40など。ちなみに「大和名勝志」に「筒井村は亀瀬の水を留むれば満水洋々たる故に郡山に移した」とあり、郡山と筒井の差は40間3尺あるとしている(『郡山町史』p.212参照)。

60 『郡山町史』p.92 第1部、第2章4 「中世土豪としての郡山」に詳しい。以下ここを主に参照。

61 天正8.12.24条
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注釈一覧 第一章二節

26 衆徒と国民については永島前掲著に詳しい。

27 田中慶治「中世後期畿内国人層の動向と在地構造ー大和古市氏を中心にー」(『日本史研究』406号、1996)に詳しい。

28 永禄3年とする定説であるらしい。薮景三著『筒井順慶とその一族』(新人物往来社、1985)p.54〜55

29 安国前掲論文p.19

30 永録11.9.24条

31 永録11.10.5条

32 永禄11.10.10条

33 奥野高廣著『増訂 織田信長文書の研究下巻』(吉川弘文館、1970)p.207参照。また以降ここより引用文書は『文書研究』何号とする。

34 谷口克広著『織田信長家臣人名辞典』(吉川弘文館、1995)等参照。ちなみに順慶自身、信長の娘を妻とっているとの説もある。

35 谷口前掲著等参照 『多聞院日記』にも岐阜へ赴くなどしている姿を記している。

36 永島前掲著

37 天正4.5.10条

38 天正7.4.23条「為筒井播州出陣祈祷」など。

39 元亀3.5.8条 『奈良市史 通史3』 p.9にも解説あり。

40 官符衆徒の立場で実力は持っていたが、それでも抗争は度々起こっている。

41 天正8.10・22条

42 天正8.11・23条

43 天正2年11月の法隆寺に対する措置等が有名である。『文書研究』482号等参照

44 天正4.11.28条

45 佐々木銀弥氏、脇田晴子氏、小野晃嗣氏などを頼りにすすめる。
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注釈一覧 第一章一節

9 2・3に同じ。

10 辻善之助編『多聞院日記』全5巻(三教書院、1935〜39)を復刊した臨川書店『増補續史料大成』版1978による。以下引用に史料名の無いものは総て『多聞院日記』からである。

11 天正8.8.5条

12 天正8.8.4条

13 天正8.8.17条

14 天正8.8.20条

15 天正8.9.25条 この時、滝川は成身院、惟任は吉祥院に滞在している。

16 天正8.10.23条

17 天正8.10.28条

18 天正8.11.2条

19 松尾前掲論文 p.305 p.333をもとに作成。

20 天正4.5.10条

21 脇田前掲著 土地関係に関しては、「支配権的性格」と「所有権的性格」の二系統あり、一職支配権とは前者にあたる。これら一国支配としては守護権の継承という形式を取っているものの、守護は・将軍・大名と言う形では大名に特権があるが、織田政権では信長にあり、武将の一国支配にも「預け置」と言う言葉で表されている。権限も信長が上級権限を確保しており、知行宛行権はまず信長から直属家臣や国人へ土地給与がなされており、基本配置が決まった上で、残余については武将に権限が認められていた。

22 脇田修著『織豊政権の都市政策』(東京大学出版会、1977)第1章

23 松尾前掲論文 p.336 仲覚三氏所蔵文書、『郡山町史』p.178

24 安国前掲論文(4に同じ) p.24

25 主に『郡山町史』 朝倉弘著『奈良県史 11 大和武士』(名著出版、1993) 永島前掲著を参照。
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注釈一覧 はじめに

本文中のかっこの数字に対応しています。

1 他に自治都市堺等もあげられる。

2 脇田修著『織田政権の基礎構造』(東京大学出版会、1975)第4章第2節

3 松尾良隆「天正八年の大和指出と一国破城について」藤木久志編『織田政権の研究』(吉川弘文館1985)V三,永原慶二監修『戦国大名論集』第17巻(この論文の初出は『ヒストリア』99号、1983.6)

4 安国陽子「戦国期大和の権力と在地構造」(『日本史研究』341号、1991)

5 幡鎌一弘「近世興福寺領覚書−内部構造と支配倫理の特質−」(『天理大学学報』181号、1996.3)

6 永島福太郎著『奈良文化の伝流』(中央公論社、1944)が代表的である。

7 松尾前掲論文 p.306

8 『多聞院日記』天正13・閏8・24条
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